三菱がまだ「スポーツの三菱」と呼ばれる前の話です。1970年代初頭、国内自動車メーカーはこぞって若年層向けのスペシャルティカーを模索していました。トヨタにはセリカがあり、日産にはシルビアがあった。では三菱はどうしたか。その答えが、1971年に登場したギャランクーペFTOでした。
「FTO」という名前の意味

FTO – DE2A / DE3A【三菱が本気で仕掛けた、忘れられたFFスポーツ】
1994年登場の三菱FTO。ランエボの陰に隠れがちだが、FFスポーツとしての完成度は極めて高く、日本カー・オブ・ザ・イヤーまで獲得した異色の一台。その開発背景と存在意義を読み解く。
まず名前の話から入りましょう。FTOとは「Fresco Turismo Omologato」の略とされています。直訳すれば「新鮮なグランツーリスモの公認車」。GTOが「Gran Turismo Omologato」なら、FTOは「フレッシュなGTO」というわけです。つまり、兄貴分であるギャランGTOの弟という位置づけが、名前の時点で明確に宣言されていました。
ギャランGTOが1970年に登場し、三菱初のスペシャルティカーとして注目を集めていた時期です。ただしGTOは1.6L以上のエンジンを積んだ、やや上級志向のモデルでした。もう少し手が届きやすい価格帯で、もう少し若い層に訴求できるクルマが欲しい。FTOはそういう企画意図から生まれています。
コルトギャランから何を削り、何を足したのか

パジェロ – L040【「我慢して乗る」を終わらせた】
1982年に登場した初代パジェロは、三菱ジープを作り続けてきた会社が「悪路も走れる乗用車」を作り直した一台でした。フロント独立懸架という判断、屋根と長さを選ばせる商品設計、パリ・ダカールでの証明。そして日本のスキー場を埋め尽くすまでの10年
ベースとなったのは、当時の三菱の屋台骨だったコルトギャランです。型式でいえばA60系のセダンをベースに、2ドアのファストバッククーペとして仕立て直したのがFTOでした。型式はA61(1.2L)、A62(1.4L)、A63(1.6L)と排気量によって分かれています。
ここで注目すべきは、FTOが単にセダンのドアを減らしただけのクルマではなかったという点です。ルーフラインはセダンとは明確に異なり、リアに向かって流れるファストバックスタイルが与えられました。全長はセダンより短く、ホイールベースも詰められています。つまり、見た目だけでなくボディの骨格レベルで「小さく、軽く、スポーティに」という意図が貫かれていたわけです。
エンジンは三菱の4G系直列4気筒。1.2Lの4G42型から1.6Lの4G32型まで3種類が用意されました。特に注目されたのは1.4Lと1.6Lで、当時の自動車税制における区分を意識したラインナップです。1.6LのMCA仕様は最高出力100psを発揮し、車重が800kg台だったFTOにとっては十分以上のパワーでした。
GTOとの棲み分けと、三菱の事情

ギャラン VR-4 - E38A/E39A【後のランエボを作った4WDターボ】
ギャランVR-4は、1987年12月に登場した高性能4WDセダンです。 三菱公式の会社史では、このVR-4は4G63 DOHCインタークーラーターボを搭載し、205ps/6000rpmを発生すると説明されています。 しか […
ギャランGTOとFTOの関係は、単純な上下関係ではありません。GTOはダイナミックなコークボトルラインを持つ、いかにもマッスルカー的な存在でした。対してFTOは、もう少しコンパクトで、もう少し日常的で、もう少し「最初の一台」に近い存在です。
この棲み分けは、当時の三菱の販売網の事情とも関係しています。三菱は1970年に三菱自動車工業として独立したばかりで、ディーラー網の整備やブランド認知の構築がまだ途上にありました。GTOだけでは届かない客層に対して、FTOという入口を用意する。これは商品戦略として極めて合理的な判断でした。
ただ、正直に言えばFTOはGTOほどの強烈な個性を持っていたわけではありません。GTOのあのアクの強いスタイリングに比べると、FTOはやや地味に映った。これは弱点というより、役割の違いです。派手さではなく、手堅さで勝負するクルマでした。
レースとラリーが育てた実力

10式戦車 – Type10【三菱の最深部に眠る、本土防衛の最適解】
陸上自衛隊の最新鋭主力戦車・10式戦車。90式の後継ではなく補完として生まれたその設計思想には、冷戦後の日本が直面した地政学的・財政的リアルが凝縮されています。
FTOの評価を語るうえで外せないのが、モータースポーツでの活躍です。三菱は1960年代からラリーへの参戦を続けており、FTOもまたその系譜に連なるクルマでした。特にツーリングカーレースの1.6Lクラスでは、軽量なボディを武器に好成績を残しています。
この時期の三菱のモータースポーツ活動は、後のランサー1600GSRによるサザンクロスラリー制覇(1973年)へとつながっていきます。FTOそのものが伝説的な戦績を残したわけではありませんが、三菱がコンパクトなスポーツモデルで競技に挑むという文化の、ひとつの起点にはなっていました。
短命に終わった理由

パジェロ – V20/V40【カローラを抜いた四駆】
1991年登場の2代目パジェロは、スーパーセレクト4WDで本格四駆を誰にでも扱えるものにし、1992年には月間販売1位へ。RVブームの中心で、一台のクルマが時代の記号になるまでを追います。
FTOの生産期間は1971年から1975年まで。わずか4年ほどで姿を消しています。その理由はいくつかあります。
まず、1973年のオイルショックです。スペシャルティカー市場そのものが急速に冷え込みました。燃費や実用性が重視される時代に、2ドアクーペは逆風を受けやすい存在です。加えて、排出ガス規制の強化がエンジンの出力を削ぎ、スポーティさという商品価値を維持することが難しくなりました。
もうひとつは、三菱自身の商品戦略の変化です。1973年にランサーが登場し、コンパクトスポーツの役割はランサーが引き受けることになります。FTOの居場所は、内外の事情によって急速に失われていったのです。
20年後の「FTO」との関係

ランサーエボリューション - CD9A 【ホモロゲのために生まれた急造の怪物】
ランサーエボリューションIは、1992年10月に登場した最初の「エボ」 三菱自動車の公式ヒストリーでも、この初代は「栄光のマシン『ランサー』の名を受け継いだ」モデルとして紹介され、しかも発売後に即完売するほどの人気を集め […
FTOという名前は、1994年に復活しています。DE2A/DE3A型の三菱FTOです。ただし、この2台の間に直接的な技術的系譜はありません。プラットフォームもエンジンも、設計思想もまるで異なります。
それでも三菱が「FTO」という名前を20年越しで引っ張り出してきたことには、意味があります。「若い層に向けた、手の届くスポーツクーペ」というコンセプトそのものが、三菱の中でひとつの原型として記憶されていたということです。1994年のFTOが「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したことを思えば、その種を最初に蒔いたのは間違いなくこのA60系のギャランクーペFTOでした。
三菱が「入口」を作ろうとした記録

ランサーエボリューションII - CE9A 【勝利のための長い調律が始まった一台】
ランサーエボリューションIIは、1994年1月に登場した二代目ランエボです。 三菱公式の車史ページでは、このモデルをはっきり「実戦経験をフィードバック」と表現しています。 つまりエボIIは、単なる年次改良ではない。199 […
ギャランクーペFTOは、華々しいヒーローカーではありません。GTOほど語られることもなく、ランサーほど戦績を残したわけでもない。けれどこのクルマは、三菱が「スポーツを身近にする」ことに初めて本気で取り組んだ記録です。
自動車メーカーにとって、フラッグシップを作ることよりも「入口」を作ることのほうが実は難しい。性能を誇示するのではなく、手が届く価格で、日常の延長線上にスポーティさを置く。FTOが担ったのは、まさにその役割でした。
短命ではあったけれど、このクルマが三菱のスポーツモデル史の中に確かな一歩を刻んだことは、覚えておいて損はないと思います。
FTOの系譜


ギャランクーペFTO – A61/A62/A63【三菱が若者に振り向いてほしかった時代の証】
FTO

この記事を書いた人
hodzilla51
クルマの系譜を追っていたら、いつの間にかサイトになっていました
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クルマのかるた
煽りだけで、クルマがわかるか。




