「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

  • hodzilla51
  • 19分で読了
「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

「本田技研工業」と「Honda」

もちろん、同じ会社です。

正式な社名は今も本田技研工業株式会社ですし、昔の会社が途中でHondaへ社名変更したわけでもありません。

それでも、この二つの名前から受ける印象は、少し違う気がします。

本田宗一郎。藤澤武夫。町工場。マン島TT。F1。VTEC。高回転エンジン。

そんな時代を思い浮かべるとき、「本田技研工業」という少し堅い名前が妙によく似合います。

一方、現在のHondaは世界中で二輪車と四輪車を販売し、航空機を飛ばし、ロボットを研究し、電動化や宇宙領域まで手を伸ばす巨大グローバル企業です。

では、「本田技研工業」は、いつ現在のHondaになったのでしょうか。

そして、その過程で「ホンダらしさ」は消えてしまったのでしょうか。

この話を考えるうえで、まず見ておきたいのがクルマではありません。

株主です。

Hondaの株主構成——いまや、ほとんど「誰の会社でもない」

N-BOX/N-BOX カスタム/N-BOX ジョイ(2026年)
画像:本田技研工業

2026年3月末現在、Hondaの筆頭株主は日本マスタートラスト信託銀行で17.5%。

2位が日本カストディ銀行で7.1%、3位がADRの預託機関名義であるMoxley & Co.で5.7%。その後も生命保険会社や海外金融機関が続きます。

そこに「本田家」の名前はありません。

これはかなり重要です。

現在のHondaは、本田宗一郎の子孫が大量の議決権を握り、「本田家がやりたいこと」を押し通せる会社ではありません。

株式市場から資本を預かり、世界中に従業員と顧客を抱え、巨額の研究開発費と設備投資を動かす上場企業です。

当然、経営には説明責任があります。

「この技術に投資すると、どの市場で勝てるのか」

「何台売れるのか」

「利益率はどうなるのか」

「その開発費は回収できるのか」

規模が大きくなるほど、こうした問いは重くなります。

そして、これはHondaだけの問題ではありません。

巨大メーカーが変なクルマを作りづらくなる理由のひとつです。

ただし。

昔のホンダは、本当に違いました。

本田宗一郎は、本当に大株主だった——1957年の持株比率16.41%

Honda 1300(1969年)。本田宗一郎が主導した空冷エンジンを積む
画像:本田技研工業

本田技研工業が東京証券取引所へ上場した1957年度。

本田宗一郎の持株比率は16.41%。

藤澤武夫は9.07%。

二人だけで約25.5%を保有していました。

本田宗一郎は、単に強烈な個性を持った社長だったわけではありません。

創業者であり、経営者であり、大株主でもあった。

そこに、経営と財務を担った藤澤武夫がいる。

現代の巨大メーカーとは、そもそも意思決定の前提が違います。

そして1957年、本田宗一郎は株主総会で研究開発について説明しています。

研究や試作というものは、すぐに貸借対照表へ成果として現れるものではない。

しかし、それでも重要なのだ、と。

当時すでに研究部門には約200人を置き、毎月最大2000万円を投じていました。

これ、今読んでもかなり象徴的です。

「数字としてすぐ説明できないものにも、会社の金を使う」

本田宗一郎時代のホンダを語るうえで、ここはかなり重要な気がします。

初代シビックとCVCC——その思想がクルマになった1972年

初代シビック 2ドア DX(1972年)
画像:本田技研工業

初代シビックが登場したのは1972年。

今ではHondaを代表する世界的な車名ですが、当時のホンダ四輪事業はかなり危うい状態でした。

その前に投入したHonda 1300は販売面で苦戦。

ホンダ自身の75年史でも、次の新型車が失敗すれば四輪事業への本格参入そのものが難しくなるのではないか、という危機感の中でシビックが開発されたとされています。

そこでホンダが作ったのは、単純に「他社より馬力のあるクルマ」ではありませんでした。

小さなFFの2ボックス。

タイヤを四隅へ置き、人が使える空間を確保する。

そして翌1973年には、厳しい米国排出ガス規制をクリアしたCVCCエンジンを投入します。

規制が厳しくなった。

なら、規制をクリアする技術を作る。

しかもCVCCの公害対策技術は他メーカーにも公開されました。

ここには、後のホンダにも何度も現れる考え方があります。

スペック競争だけではない。

「世の中がこうなるなら、技術で別の答えを出す」

という姿勢です。

シビックは、その思想を最も長く観察できるクルマでもあります。

本田宗一郎は「本田宗一郎の会社」を、自分で終わらせた

ここからが、この会社の少し変わったところです。

普通、強烈な創業者がいて、大量の株を持ち、会社が成功したなら、その影響力を残そうと考えても不思議ではありません。

ホンダは逆でした。

1960年、本田技術研究所の分離

1960年、ホンダは研究部門を本体から切り離し、本田技術研究所を独立させます。

その狙いとしてホンダ自身が残しているのが、

一人の天才・本田宗一郎だけに依存するのではなく、多くの専門家の力を使う

という考え方です。

さらに1970年には、すでに4人の専務による集団指導体制への移行を進めていました。

1973年、藤澤武夫とともに退任

そして1973年。

藤澤武夫が退任を決めると、本田宗一郎も同時に退きます。

後継社長は河島喜好。

45歳。

本田家でも、藤澤家でもありません。

ホンダ自身も、この人事について「典型的な同族企業ではないことを示した」と振り返っています。

つまり現在のHondaが「本田家の会社」ではないのは、創業者の力がいつの間にか失われたからではありません。

本田宗一郎と藤澤武夫自身が、そういう会社を作ったのです。

これはものすごく立派な判断だと思います。

でも同時に、少し怖い判断でもあります。

創業者への依存をなくすということは、

創業者にしか説明できなかった価値を、組織として説明できるようにしなければならない

ということでもあるからです。

VTECとシビックType R EK9——それでもしばらく「変なホンダ」は残った

シビックType R – EK9 【VTEC一つの頂点にして最高の傑作機】

遂に「Type R」がシビックに降臨 1997年8月22日、ホンダは6代目シビック(EK型)のマイナーチェンジに合わせて初代シビック Type R EK9が追加しました。 NSX-R、インテグラ Type Rで育んだRの […

もちろん、本田宗一郎が退任した1973年を境にホンダが突然普通の会社になったわけではありません。

むしろ、その後も技術者集団としての色はかなり濃く残りました。

その象徴のひとつがVTECです。

1989年に登場したVTECは、低回転側と高回転側で異なるバルブ特性を使い分けることで、日常域の扱いやすさと高回転域の性能を両立しようとした技術でした。(この記事を読む人で知らない人はいないと思いつつ)

最初にこれを積んだのがシビックSiR(EF9)で、そこからシビックにもこの技術が入っていきます。

やがて1997年には初代シビック TYPE R、EK9が登場。

1.6L自然吸気のB16Bは185PSを8,200rpmで発生し、車重は約1,050kg。

ホンダが狙ったのは、単なる最高出力だけではなく、高回転まで回したときの伸びやアクセルレスポンスでした。

シビック TYPE R・X のアルミ製ペダル(1999年)
画像:本田技研工業

もちろん185PSという数字そのものも、当時としては十分にすごい。

でも、あの時代のホンダ車を好きな人が語るものは、それだけではありません。

回していく。

音が変わる。

エンジンの表情が変わる。

もう一度そこまで回したくなる。

速く走るためだけなら、必ずしも必要ではない感覚です。

でも、運転する人間にとっては大きな価値になる。

かつての本田技研工業が得意だったのは、こういう「スペック表には最後まで書き切れない価値」をクルマへ入れることだったのかもしれません。

巨大企業になるほど、「説明できる性能」が強くなる——2020年の組織再編

ところがホンダは、その後さらに巨大になります。

二輪、四輪、パワープロダクツ、航空機。

世界中で事業を展開し、研究開発費も設備投資も桁違いになる。

株主も創業者中心ではなく、機関投資家や市場の株主へ分散していきます。

これは会社として成功した結果です。

そして企業が大きくなるほど、商品開発にも事業としての合理性が求められます。

象徴的なのが2020年の組織再編です。

Hondaはそれまで本田技術研究所が担っていた四輪の商品開発機能の多くを本田技研工業本体へ統合。

営業、生産、開発、購買を一体化し、企画から量産までをより効率的に運営する体制へ変更しました。

一見すると、かつて独立させた研究所を元へ戻したようにも見えます。

ただ、Hondaの説明はもう少し面白い。

量産車の商品開発は、失敗できない。

一方、将来技術の研究は、99%失敗するようなテーマにも挑まなければならない。

だから両者を分ける。

本田技術研究所には、ロボティクスやエネルギー、新しいモビリティなど、未知の領域を改めて任せることになりました。

つまりこれは、昔の思想を完全に捨てたというより、

巨大企業になったHondaなりに、挑戦と事業を仕分け直した

と見る方が正しいでしょう。

FL5型シビックType Rは、ものすごく良いクルマです

シビックType R - FL5【血統がたどり着いた新時代のFF】

「Type R」30年目の新章、FL5 2022年9月、11代目シビックをベースに誕生したFL5型シビック Type Rは、歴代最多320 psを誇ったFK8をさらに磨き上げ、2023年4月にニュル北コース7分44秒88 […

ここで現代のシビックを見てみます。

現行FL5型シビック TYPE R

2.0L VTEC TURBO。

330PS。

420Nm。

6速MT。

Hondaが積み上げてきたFFスポーツの技術を使い、ニュルブルクリンクでも圧倒的な速さを証明してきたクルマです。

シビックType R(FL5)
画像:本田技研工業

性能だけ見れば、昔のシビックとは比較になりません。

シャシーも空力もタイヤも電子制御も、遥かに高度です。

そしてHonda自身も、FL5では速さだけでなく、ドライバーの感情に訴える「driving pleasure」を追求したと説明しています。

だから、「昔のHondaには技術があったけど今のHondaにはない」という話ではありません。

そんなものは数字を見ればすぐ否定できます。

今のHondaの技術力は、間違いなく高い。

でも、ここで少し別の疑問が残ります。

「すごい性能」と「欲しくなる理由」は、同じなのか

330PS。

420Nm。

ニュルブルクリンクのラップタイム。

高剛性ボディ。

大型ブレーキ。

シビック TYPE R(FL5)の加速性能グラフ
画像:本田技研工業

こういう性能には、大きな強みがあります。

価値を説明しやすいのです。

なぜこのクルマに高い金額を払うのか。

なぜこの部品を開発するのか。

なぜこの性能が必要なのか。

数字で示せます。

一方、

「高回転まで回したくなる」

「シフトを一段落として、もう一度加速したくなる」

「速くなくても、このクルマで遠回りしたくなる」

という価値は、かなり説明しづらい。

何馬力分なのか。

何秒短縮できるのか。

何台多く売れるのか。

測ることが難しい。

それでも本田宗一郎時代の本田技研工業は、そういうものへ平然と金を使いました。

そもそも創業者本人が、研究開発について「すぐ貸借対照表に成果が出るものではない」と株主へ説明していた会社です。

だから、昔のHondaと今のHondaの違いを考えるなら、

「技術力が落ちた」

ではなく、

「説明しづらい価値に、会社としてどこまで賭けられるのか」

という問いの方が近いのかもしれません。

そして、これはHondaだけの問題ではありません。

創業者企業が巨大な上場企業へ成長するとき、ほとんどの会社が一度は直面する問題です。

それを望んだのは、本田宗一郎本人だった

だから、現在のHondaを見て、

「昔のHondaは良かった」

だけで終わるのも少し違います。

今の資本構成も。

プロ経営者による経営も。

創業家に依存しない組織も。

ある意味では全部、本田宗一郎と藤澤武夫が望んだHondaの姿だからです。

NS-X(1989年発表時のNSX)の走行イメージ
画像:本田技研工業

二人は自分たちの子供へ会社を継がせませんでした。

自分たちがいなくても研究できる仕組みを作りました。

若い後継者へ会社を渡し、自分たちは経営から退きました。

「本田宗一郎という天才がいなくなったら終わる会社」にしないためです。

その実験は成功しました。

本田宗一郎が亡くなってから30年以上。

経営から退いてからなら半世紀以上が経っています。

それでもHondaは世界最大級のモビリティ企業として残っている。

その事実だけでも、創業者の設計は恐ろしく優秀だったと言えます。

ただ。

会社を残すことと、

創業者が持っていた狂気まで残すことは、同じではありません。

Super-ONEのBOOSTモード——2026年、少しだけ「本田技研工業」が戻ってきた

そんなことを考えていたら、2026年。

Hondaから少し妙なクルマが出てきました。

皆さんもご存知、Super-ONEです。

小型EV。

ベースはN-ONE e:。

ここまでなら、時代に合わせた普通の電気自動車にも見えます。

ところがHondaは、このEVに専用の「BOOSTモード」を入れました。

通常47kWの最高出力を70kWまで引き上げる。

ここまでは分かります。

速くなるからです。

でも、その先がおかしい。

7段の仮想有段シフト制御。

さらに、

アクセル操作に合わせて鳴る仮想エンジンサウンド。

Super-ONEのパドルシフト(7段の仮想有段シフト制御を操作する)
画像:本田技研工業

EVには本来、どちらも必要ありません。

モーターは変速しなくても走れます。

エンジンもないので、エンジン音も必要ありません。

効率だけを考えるなら、なくてもいい。

それでもHondaは作りました。

理由も、かなり分かりやすい。

Honda自身がBOOSTモードについて、

カーボンニュートラルの時代でも「操る喜び」を届けるためのものだと説明しています。

これです。

最高出力なら数字にできます。

航続距離も数字にできます。

充電時間も数字にできます。

でも、

「変速しないEVを、わざわざ変速しているように感じさせた方が楽しい」

は、かなり説明しづらい価値です。

そのためだけに制御を作る。

音を作る。

演出を作る。

効率の世界から少しだけはみ出して、人間がどう感じるかに開発費を使う。

なんだか、ずいぶん昔の会社に似ています。

Super-ONE【令和のブルドッグ、軽EVの枠を壊して生まれたホットハッチ】

N-ONE e:をベースに軽自動車規格を超越した小型EVスポーツ、Super-ONE。BOOSTモードや仮想有段シフトなど、EVの常識を覆す仕掛けの裏にあった開発思想と、1983年のシティターボIIブルドッグとの系譜を読み解く。

本田技研工業は、まだHondaの中に残っている

本田宗一郎の本田技研工業は、もうありません。

それでいいのだと思います。

そもそも本田宗一郎本人が、自分なしでも続く会社を作ろうとしたのですから。

現在のHondaは、世界中の株主から資本を預かり、何十万人もの生活と巨大な事業を背負って動く企業です。

1950年代の会社と同じ意思決定ができるはずもありません。

そして、するべきでもないでしょう。

ただ、その巨大な組織のどこかで、

「これ、必要ではないけど楽しくない?」

と言う人がいて、

それに会社の金を使うことが許されて、

本当に商品になって出てくる。

Super-ONE フロント7:3スタイリング(ブーストバイオレット・パール)
画像:本田技研工業

Super-ONEを見る限り、

どうやらHondaの中には、まだ少しだけ「本田技研工業」が残っているようです。

この記事に出てきたクルマの系譜

参考

小鍛治康人(やすと)

 

「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

Honda

小鍛治康人(やすと)

この記事を書いた人

hodzilla51

クルマの系譜を追っていたら、いつの間にかサイトになっていました

関連記事