「デートカー」という言葉を聞いて、真っ先にこのクルマを思い浮かべる人は少なくないでしょう。
1982年に登場した2代目ホンダ・プレリュード、型式AB/BA1。ただ、この車をただの「モテるためのクルマ」として片づけてしまうのは、かなりもったいない話です。中身を見ていくと、ホンダがこの1台にどれだけの技術的野心を詰め込んでいたかがわかります。
初代の課題を超えるために
2代目プレリュードを語るには、まず初代の立ち位置を押さえておく必要があります。初代プレリュードは1978年、ホンダの新販売チャンネル「ベルノ店」の発足と同時に専売モデルとして登場しました。シビック、アコードに続くホンダ第3のモデルであり、日本車初の電動サンルーフを標準装備した意欲作です。
ただ、初代にはひとつ弱点がありました。パワートレーンをアコードから譲り受けていたため、「アコードのクーペ版」と見られがちだったのです。サスペンションやブレーキは専用設計で、海外では走りの評価も高かったのですが、エンジンが流用であるという指摘は開発陣にとって悔しいものだったようです。
実際、初代は約4年間で累計約31万3,000台を生産したものの、そのうち約8割が海外向けでした。国内での存在感は正直、薄かった。2代目はこの状況を変えなければならなかったわけです。
低さへの執念が生んだ構造
1982年11月26日、「FFスーパーボルテージ」というキャッチコピーとともに2代目プレリュードが登場します。CMのBGMにはラヴェルのボレロが使われました。まず目を引くのは、その異様なまでに低いシルエットです。全高はわずか1,295mm。リトラクタブルヘッドライトを採用し、先代よりボンネットを80〜100mmも下げています。
この低さを実現した立役者が、フロントのダブルウィッシュボーン式サスペンションです。FF車、つまり横置きエンジンの前輪駆動車にダブルウィッシュボーンを組み込むのは、当時としてはかなり異例でした。横置きエンジンがあるとアッパーアームを長く取れないという物理的な制約があるからです。
ホンダの解決策はユニークでした。通常タイヤの下方にあるアッパーアームを、あえてタイヤの上方に配置したのです。これによってロアアームとの間隔を大きく取り、スペース効率を確保しつつ、コーナリング時のアッパーアームへの負担も軽減しました。低いボンネットのためにストラットが使えない、でもダブルウィッシュボーンも普通には入らない。その制約を逆手に取った設計思想は、のちにホンダの足回りの代名詞となるダブルウィッシュボーンの原点とも言えるものです。
先端技術の見本市
2代目プレリュードに投入された新技術は、サスペンションだけではありません。グレード構成は上からXX、XZ、受注生産のXCという3本立てで、XXとXZには日本初の4輪アンチロックブレーキ(4W A.L.B.)がオプション設定されました。XXにはさらに、カラーフィルター式液晶デジタルメーターもオプションで用意されています。
トランスミッションは5速MTとロックアップ機構付き4速AT「ホンダマチック」の2種類。ホンダ車として初めて180km/hの速度リミッターが搭載されたのもこのモデルです。
搭載エンジンは1.8L直列4気筒SOHCのES型。1気筒あたり吸気2・排気1の計12バルブという独特な構成で、2連装CVキャブレターとの組み合わせで5速MT車が125ps、4速AT車が120psを発揮しました。この12バルブ構成は、2つの吸気バルブの開弁時期をずらすことでスワール効果と急速燃焼を実現するもので、のちのVTECの萌芽とも言える発想が含まれていました。
B20A搭載の2.0Si──BA1の意味
2代目プレリュードの物語には、重要な「第二幕」があります。1985年6月、2.0L直列4気筒DOHCのB20A型エンジンを搭載した新グレード「2.0Si」が追加されたのです。型式はBA1。ここが少しややこしいポイントで、BA型という型式は本来1987年登場の3代目プレリュード全般を指すのですが、2代目のこのグレードだけが先行してBA1を名乗っています。
B20A型は3代目アコード譲りの2L DOHC 16バルブユニットで、PGM-FI(電子制御燃料噴射)を採用。5速MT車・4速AT車ともに160ps/19.0kgmという、当時のFFスペシャルティカーとしてはかなりのハイスペックを叩き出しました。2.0Siのボンネット左側にはパワーバルジが設けられていますが、これは大きくなったDOHCエンジンが元のボンネットに収まりきらなかったためです。
このB20A型エンジンの開発思想は、のちの3代目プレリュードの開発記録からも読み取れます。開発責任者は「過給に頼らず、2L自然吸気の枠の中で最大級の出力と使いやすさを両立する」ことにこだわったとされています。エンジンを後方に18度傾けて搭載し、クランクシャフトの位置を従来の1.8Lエンジンより33mm下げることで、低重心化と低ボンネットの両立を図りました。
なぜ「デートカー」になったのか
ここまで技術的な話を並べてきましたが、世間がこのクルマに付けたあだ名は「デートカー」でした。横幅が広く車高が低い、当時の日本車離れしたスタイリングが女性にも好評で、運転席側から助手席のリクライニングを操作できるという装備も話題を呼びました。
1982年という時代を思い出してください。バブルはまだ来ていませんが、その前夜の空気が漂い始めていた頃です。クルマはモテのための必須アイテムであり、若者たちはオヤジ臭いセダンよりカッコいいクーペを求めていました。リトラクタブルライトを閉じたときの、のっぺりと低いノーズ。ブラックアウトされたフロントマスク。この佇まいが、時代の気分にぴたりとはまったのです。
ただ、皮肉なことに、ホンダが本当に誇りたかったのはデザインだけではなく、その下に隠された技術の塊だったはずです。FF用ダブルウィッシュボーン、日本初の4輪ABS、12バルブの独自エンジン。先進メカニズムよりもスタイルが評価されたことについて、当時の記事でも「皮肉」と表現されています。
累計60万台、そして3代目へ
2代目プレリュードは1987年の生産終了までに約16万6,910台が国内で生産されました。海外を含めた累計では60万台を超えたとされ、FFスペシャルティカーとして異例の大ヒットを記録しています。
そして1987年4月、3代目プレリュード(BA4/BA5型)にバトンが渡されます。3代目はエンジンの後傾レイアウトをさらに進め、2代目より30mm低いボンネットを実現。量産車世界初の機械式4WSを搭載し、欧州カー・オブ・ザ・イヤーで3位に入るなど、国際的にも高い評価を得ました。この3代目の技術的飛躍は、2代目で蒔かれた種が花開いたものと言ってよいでしょう。
2代目プレリュードのBA1型は、グループAレースのホモロゲーションも取得しており、1986〜1987年の全日本ツーリングカー選手権にも参戦しています。デートカーの皮をかぶったレーシングベースという、なんとも不思議な二面性を持っていたわけです。
2代目プレリュードは、ホンダにとって単なるヒット商品ではありませんでした。ダブルウィッシュボーンの量産FF車への採用、DOHCエンジンのスペシャルティカーへの展開、先進安全装備の市販化。ここで試みられた技術の数々は、その後のアコードやシビック、そしてプレリュード自身の後継モデルへと受け継がれていきます。「前奏曲」を意味するプレリュードという車名は、まさにこの世代にこそふさわしいものだったのかもしれません。
