セリカXX – A40/A50セリカから枝分かれした直6の野心

スープラという名前を聞くと、多くの人はA80、あるいはA70を思い浮かべるかもしれません。でもこの車種の出発点は、もう少し地味で、もう少し野心的な場所にあります。
1978年に登場したA40/A50型。日本では「セリカXX」と呼ばれ、北米では「セリカ・スープラ」として売り出されたこのクルマが、すべての始まりです。
なぜセリカの名前がついているのにスープラなのか。なぜ直列6気筒だったのか。そしてなぜ、セリカとは別の道を歩むことになったのか。
初代スープラの成り立ちを追うと、トヨタが1970年代後半に何を狙っていたのかが、かなりはっきり見えてきます。
セリカでは届かなかった場所

セリカXX – A60【セリカから離れ、GTの名乗りを上げた転換点】
セリカXXの後継として1981年に登場したA60型スープラ。北米ではスープラを名乗り、直6エンジンとGT性能で独自路線を切り拓いた、系譜上の重要な転換点を読み解きます。
1970年代後半、トヨタには明確な課題がありました。北米市場で、日産のZカー(フェアレディZ・S30型)に対抗できるスポーツクーペがなかったのです。セリカは確かに人気がありましたが、あくまで4気筒ベースのスペシャルティカーという立ち位置。Zカーが持つ「直6のGTカー」という格には、どうしても届きませんでした。
当時のアメリカ市場では、直列6気筒エンジンの滑らかさとトルク感が、スポーツクーペの格を決める大きな要素でした。4気筒ではどれだけチューニングしても「安い車」の印象を拭いきれない。トヨタがZカーに正面から挑むなら、6気筒を積んだクーペが必要だったわけです。
セリカを伸ばして6気筒を押し込む

スープラ – A70【トヨタが本気でGTカーを作ろうとした転換点】
セリカから独立し、トヨタが初めて「スープラ」を単独車種として送り出したA70型。直6ツインターボとスポーツGTの本気度を、時代背景から読み解きます。
トヨタが選んだ方法は、かなり合理的で、同時にかなり力技でもありました。2代目セリカ(A40系)のプラットフォームをベースに、ノーズを約130mm延長して直列6気筒エンジンを搭載する。つまり、セリカの車体を物理的に引き延ばして、上位モデルを作ったのです。
搭載されたのはM型エンジン。日本仕様では2.0LのM-EU型(A40系)と2.6Lの4M-E型(A50系)が用意され、北米仕様では4M-E型の2.6Lが主力でした。M型エンジンはクラウンやマークIIにも使われていたトヨタの直6の系譜で、信頼性には定評がありました。ただ、スポーツエンジンというよりは「上質なツアラー向けのユニット」という性格です。
ここが初代スープラの面白いところで、エンジン自体はスポーツカーのために開発されたものではありません。既存のセダン用直6を、スペシャルティクーペに転用している。要するに、トヨタは「新しいスポーツカーを一から作る」のではなく、「既存の資産を組み合わせて上位セグメントに参入する」という商品企画をしたわけです。
セリカXXという日本名の事情

スープラ – A80【バブルの残り火が生んだ、奇跡の国産最高峰GTマシン】
トヨタが採算を度外視して作り上げたA80スープラ。直6ツインターボ・2JZ-GTEを心臓に持つこのGTカーは、なぜあの時代にしか生まれ得なかったのかを読み解きます。
日本では「セリカXX(ダブルエックス)」という名前で販売されました。なぜスープラではなかったのか。これはシンプルに、日本市場ではセリカのブランド力が圧倒的に強かったからです。セリカの上級版という位置づけのほうが、販売戦略上は合理的でした。
一方、北米では「セリカ・スープラ」として投入されています。スープラ(Supra)はラテン語で「超える」を意味する言葉。セリカを超えるもの、という意図がそのまま名前になっています。この時点ではまだセリカの派生モデルという扱いで、独立した車種ではありませんでした。
ただ、名前の付け方ひとつ取っても、トヨタの狙いは明確です。日本ではセリカの傘の下で売る。北米ではZカーの対抗馬として、セリカとは違う格を持たせる。同じクルマなのに、市場によってまったく違うブランディングをしていたわけです。
GTカーとしての実力と限界

GRスープラ – A90【17年の沈黙を破った、トヨタが一人では作れなかった直6FR】
17年ぶりに復活したスープラA90。BMWとの共同開発という異例の選択の裏には、トヨタ単独では成立しえなかった直6FRスポーツの現実があった。その開発経緯と存在意義を読み解く。
走りの面では、初代スープラは「快適に速いGTカー」でした。直6の滑らかさ、ロングノーズの安定感、セリカより一回り余裕のあるキャビン。高速巡航での快適性は、4気筒のセリカとは明らかに別物です。
ただし、ピュアスポーツかと言われると、そこは正直に言って微妙なところです。車重はセリカより当然重くなっていますし、M型エンジンのパワーは2.6Lの4M-Eでも110馬力程度(北米仕様・ネット値)。排ガス規制の厳しかった時代ですから仕方ないのですが、Zカーの直6と比べても突出したスペックではありませんでした。
むしろこのクルマの本質は、スポーツカーというよりも「6気筒のラグジュアリークーペ」に近いものです。パワーウィンドウ、オートエアコン、AM/FMステレオといった装備が充実しており、トヨタとしてはセリカの上に「高級スポーティ」という新しい層を作ろうとしていたことがわかります。
1981年のマイナーチェンジと進化

レビン/トレノ - TE71【最後のFR直4レビンという十字架】
AE86の前夜に存在した最後のFR・直4レビン/トレノ。TE71は地味な存在に見えて、カローラスポーツの系譜が大きく転換する直前の、重要な結節点でした。
1981年には大幅なマイナーチェンジが行われ、日本仕様では2.8Lの5M-GEU型エンジンが追加されました。DOHCの直列6気筒で、出力は170馬力(グロス値)。これは当時のトヨタとしてはかなり意欲的なスペックで、初代スープラの性格を一段スポーティな方向へ引き上げています。
エクステリアもリトラクタブルヘッドライトの採用などでシャープな印象に変わり、初期型の穏やかな顔つきとはかなり雰囲気が違います。この後期型は、スープラが「GTカー」から「スポーツGT」へ軸足を移していく過渡期のモデルと言えます。
北米でもこのタイミングで5M-GE型が投入され、セリカ・スープラの評価は確実に上がりました。Zカーへの対抗という当初の目的に対して、ようやく実力が追いついてきた時期です。
系譜の出発点としての意味

ランドクルーザー – BJ60/FJ60/FJ62【「働くクルマ」が高級車になった転換点】
1980年登場の60系ランドクルーザーは、角型ヘッドライトと快適装備で「働くクルマ」から「乗るクルマ」へと転換を果たした。ランクルが高級SUVになる原点を読み解きます。
初代スープラ(A40/A50)は、後のA70やA80のような圧倒的な存在感を持つクルマではありません。セリカの派生モデルという出自、既存エンジンの転用、控えめなパワー。華やかさだけで見れば、正直なところ地味な部類に入るでしょう。
でも、このクルマがなければスープラという系譜は存在しませんでした。「トヨタにも直6のスポーツクーペが必要だ」という判断。セリカとは別の格を持つGTカーという商品企画。そして北米市場でZカーと戦うという明確な意志。これらすべてが、A40/A50で初めて形になったのです。
2代目のA60では完全にセリカから独立し、スープラは独自の道を歩み始めます。その独立を可能にしたのは、初代が北米で一定の支持を得て「スープラ」というブランドの種を蒔いたからにほかなりません。
A40/A50は、スープラの原型というよりも、スープラが生まれるための実験だったと言ったほうが正確かもしれません。セリカの延長線上から始まった直6クーペが、やがてセリカを超え、独自のアイデンティティを獲得していく。
その最初の一歩が、ここにあります。
スープラの系譜


セリカXX – A40/A50【セリカから枝分かれした直6の野心】
Toyota
クルマのかるた
煽りだけで、クルマがわかるか。



