ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

  • hodzilla51
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ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

1960年代の日産にとって、ブルーバードは単なる量販車ではありませんでした。トヨタ・コロナとの販売台数競争——いわゆる「BC戦争」の主役であり、会社の看板そのものだったのです。

その2代目にあたるP410型が、わざわざイタリアのピニンファリーナにデザインを依頼して生まれたという事実は、当時の日産がどれほど大きな賭けに出たかを物語っています。

初代の成功と、その先にあった焦り

初代ブルーバード(310型)は1959年に登場し、日本のモータリゼーション黎明期を代表するヒット作になりました。丸みを帯びたボディに1.0〜1.2リッタークラスのエンジンを積んだ実用的なセダンで、タクシーや営業車としても広く使われています。販売は好調でしたが、トヨタ・コロナとの競争は年を追うごとに激しさを増していました。

日産が次期モデルに求めたのは、単なるモデルチェンジ以上の「格上げ」です。国内でコロナに差をつけるだけでなく、輸出市場でも通用する国際的なスタイリングが必要だと考えました。1960年代初頭の日本車は、まだ欧米市場で「安いけど垢抜けない」という評価から抜け出せていなかった時代です。

なぜピニンファリーナだったのか

ここで日産が選んだのが、イタリア・トリノのカロッツェリア、ピニンファリーナへのデザイン委託でした。フェラーリやランチア、アルファロメオのボディを手がけてきた名門中の名門です。日本の量産車メーカーが、ここまで格の高いデザインハウスに仕事を依頼すること自体、当時としてはかなり異例のことでした。

背景には、日産社内のデザイン力に対する自己評価の厳しさがあったとされています。初代310型のスタイリングは悪くなかったものの、欧米の同クラス車と並べたときに「世界基準のエレガンス」には届いていないという認識があったのです。自社だけでは超えられない壁を、外の力で突破しようとした判断でした。

もうひとつ見逃せないのは、当時の日産が輸出拡大を本格的に視野に入れ始めていたことです。とくに北米市場を意識したとき、「イタリアの一流デザイナーが手がけた」という事実そのものが、ブランドの説得力を高める武器になると考えたのでしょう。

P410のスタイリングが持っていた意味

1963年に登場したP410型ブルーバードは、初代の柔らかな曲線とはまったく異なるシャープなラインを持っていました。直線基調のボディ、薄く引き伸ばされたような水平のプロポーション、そして抑制の効いたディテール。いかにもピニンファリーナらしい、華美さよりも品格で勝負するデザインです。

ただ、このデザインは日本市場では賛否が分かれました。初代の親しみやすさに慣れたユーザーからは「冷たい」「よそよそしい」という声もあったのです。とくに尖ったテールフィン風の処理は好みが割れるポイントでした。

結果として、日産は発売後比較的早い段階でマイナーチェンジを実施し、フロントまわりやリアのデザインを修正しています。P411型と呼ばれるこの改良版では、やや丸みを加えて国内ユーザーの感覚に寄せる調整が行われました。つまり、ピニンファリーナの原案がそのまま日本市場に完全にフィットしたわけではなく、「翻訳」が必要だったということです。

メカニズムと実力

デザインの話題が先行しがちなP410ですが、中身もしっかり進化しています。エンジンは1.2リッターのE型をベースに、上級版では1.0リッターのE-1型も設定されました。初代から引き続きOHVの直列4気筒ですが、信頼性と実用性を重視した堅実な設計です。

サスペンションは前輪が独立懸架、後輪はリーフリジッドという当時の定番構成。とくに画期的なメカニズムがあったわけではありませんが、ボディ剛性の向上や乗り心地の改善は着実に図られていました。

注目すべきは、このP410世代でもモータースポーツへの参戦が続けられたことです。ブルーバードは初代310型の時代からラリーで活躍しており、P410も国内外のレースやラリーに投入されました。「走り」のイメージを販売に結びつけるという戦略は、この時代の日産にとって重要な柱だったのです。

BC戦争のなかで

P410が戦った相手は、言うまでもなくトヨタ・コロナです。1964年に登場したコロナRT40型は、まさにブルーバードを意識して開発された強敵でした。コロナは国内ユーザーの好みに徹底的に寄り添った商品企画で攻めてきたのに対し、ブルーバードは国際性を前面に出すという、ある意味で対照的なアプローチを取っています。

販売面では、P410は初代ほどの圧倒的な優位を保てなかったとされています。ピニンファリーナデザインという「格」は確かに話題になりましたが、日本の一般ユーザーにとっては、日常の使い勝手や親しみやすさのほうが購買動機として強かった時代です。

ただ、これを単純に「失敗」と片付けるのは違います。P410で日産が得たのは、海外デザイナーとの協業ノウハウであり、国際市場を意識した商品づくりの経験でした。この経験は、後の510型ブルーバードの大成功に確実につながっています。

2代目が系譜に残したもの

P410/P411型ブルーバードは、ブルーバード史上もっとも「挑戦的」だった世代かもしれません。国内で盤石の地位を築いた初代の後を受けて、あえて外の血を入れ、世界基準のデザインで勝負しようとした。その判断は、結果的に国内市場では手放しの成功とは言えなかったかもしれませんが、日産というメーカーの視野を確実に広げました。

のちに510型が北米で「ダットサン510」として爆発的な人気を得るとき、その下地を作ったのは間違いなくこのP410世代の経験です。ピニンファリーナとの仕事を通じて、日産は「日本車のデザインとは何か」「海外市場が求める品質とは何か」を自問する機会を得たのです。

2代目ブルーバードは、日産が国内メーカーから国際メーカーへと意識を切り替えた最初の一歩でした。派手な成功譚ではないかもしれません。

けれど、この一歩がなければ、その後の日産の歴史はまったく違ったものになっていたはずです。

ブルーバードの系譜

小鍛治康人(やすと)

 

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小鍛治康人(やすと)

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