ブルーバード – P310「名前」が生まれた瞬間のクルマ

小鍛治康人(やすと)約8分

「ブルーバード」という名前を聞いて、どの世代を思い浮かべるかは人によってまったく違います。510を挙げる人もいれば、910やU12を語る人もいる。けれど、そもそもこの名前が最初に冠されたクルマがどんな存在だったのか、ちゃんと語られることは意外と少ない。1959年に登場したP310型。これが「ブルーバード」の出発点です。

ダットサン1000の次に来たもの

ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

1963年登場の2代目ブルーバード、P410/P411型。イタリアの名門ピニンファリーナにデザインを委ねた背景には、日産が国内市場だけでなく世界を見据え始めた時代の転換点がありました。

P310型を語るには、まずその前身であるダットサン1000(210型)の存在を押さえておく必要があります。210型は1957年に登場し、翌年にはオーストラリアのモービルガス・トライアルでクラス優勝を果たすなど、日産の小型乗用車として国際的な実績を積み始めていました。

ただ、210型はあくまで「ダットサン1000」という排気量ベースの呼称で販売されていました。型式で呼び、排気量で区別する。当時の日本車はだいたいそんな感じです。クルマに「固有の名前」を与えて、ブランドとして育てるという発想は、まだ一般的ではありませんでした。

そこに登場したのがP310型です。日産はこのモデルから「ブルーバード」というペットネームを正式に採用しました。メーテルリンクの童話『青い鳥』に由来するこの名前は、当時の日産社内公募で選ばれたとされています。つまりこのクルマは、日産が「型式番号ではなく名前で覚えてもらう」という戦略に舵を切った最初の一台だったわけです。

ピニンファリーナの影

ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

1967年登場の510ブルーバードは、北米市場で日本車の評価を一変させた。SOHCエンジン、四輪独立懸架、合理的なパッケージ。なぜこの車が世界を動かせたのかを読み解きます。

P310型のデザインを語るうえで避けて通れないのが、イタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナとの関係です。当時の日産は、乗用車デザインの近代化を急いでいました。210型まではどこか武骨で実用本位のスタイリングでしたが、P310型ではイタリアンデザインの手法を取り入れることで、一気にモダンな印象へ転換しています。

具体的には、ピニンファリーナがデザインの方向性に関与したとされており、丸みを帯びたボディライン、前後に流れるようなフェンダーの処理など、当時の欧州車に通じるプロポーションが与えられました。ただし、最終的なデザインの仕上げは日産社内で行われており、「ピニンファリーナ・デザイン」と言い切れるかどうかは、資料によって見解が分かれます。

要するに、丸ごとイタリアに外注したわけではなく、「欧州の感覚を自社に取り込む」というプロセスの産物だったと見るのが妥当でしょう。この手法は、当時のトヨタがクラウンで目指した方向性とも重なります。日本の自動車メーカーが「見た目の質」を本気で意識し始めた時代の空気が、P310型には色濃く反映されています。

1000ccという現実的な選択

ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

1971年登場のP610型ブルーバードは、L型エンジン搭載と車体の大型化で高級路線へ舵を切った転換点。なぜブルーバードは「上」を目指したのか、その背景と意味を読み解きます。

P310型に搭載されたエンジンは、直列4気筒OHVの988cc・C型エンジン。最高出力は34馬力です。現代の感覚で見れば驚くほど非力ですが、当時の日本の道路事情と税制を考えれば、これは極めて合理的な選択でした。

1950年代後半の日本では、小型自動車の排気量枠が税制上の大きな区切りになっていました。1000cc以下に収めることで、ユーザーの維持コストを抑える。マイカー時代の入り口に立っていた日本市場において、これは「走りの性能」よりもはるかに重要な商品企画上の判断です。

のちにP312型として1200ccエンジン(E型)を搭載したモデルも追加されますが、最初に1000ccで出したこと自体が、日産のマーケティング的な計算を物語っています。まず広い層に届けて、そのあとで上を伸ばす。この段階的な展開は、後のブルーバードシリーズでも繰り返される基本戦略になりました。

モータースポーツへの布石

ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

1976年登場の6代目ブルーバード810型。角型ヘッドライトとモダンなスタイリングで、バイオレットとの差別化を図りながら「ブルーバード」の名にふさわしい存在感を取り戻そうとした一台を読み解きます。

P310型は、モータースポーツの世界でも存在感を示しています。とりわけ注目すべきは、先代210型から続くラリーへの積極参戦です。日産はP310型でも国内外のラリーイベントに挑み、小型車としての耐久性と信頼性をアピールしました。

この時代のモータースポーツ参戦は、純粋な速さの追求というよりも、「壊れない」「ちゃんと走り切る」ことの証明でした。まだ日本車の品質に対する国際的な信頼が確立されていない時代です。完走すること自体がブランドの説得力になる。P310型はそうした文脈のなかで、日産の「走って証明する」姿勢を引き継いだモデルでした。

この姿勢はやがて、次世代の410型、そして名車510型へと受け継がれていきます。510型がサファリラリーで総合優勝を果たすのは1970年のこと。その系譜の最初の一歩が、P310型の時代にすでに踏み出されていたわけです。

BC戦争の始まり

ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

910型ブルーバードは、長く続いたFR時代の最終モデルでありながら、ハッチバック追加やターボ搭載など次世代への布石を打った一台。変革前夜の日産が見せた本気の集大成を読み解きます。

P310型の登場は、日本の自動車史におけるもうひとつの大きな文脈とも接続しています。それが、いわゆる「BC戦争」です。Bはブルーバード、Cはトヨタのコロナ。この二台が1960年代を通じて繰り広げた販売競争は、日本のモータリゼーションの象徴的なエピソードとして語り継がれています。

P310型が登場した1959年は、初代コロナ(ST10型)がまだ市場で苦戦していた時期にあたります。つまり、この時点ではブルーバードが明確に優位に立っていました。日産の販売網の強さ、210型で築いた実績、そしてモダンなデザイン。P310型は、BC戦争の「先手」を打ったクルマだったと言えます。

もちろん、トヨタはその後コロナを急速に進化させ、1960年代半ばには形勢を逆転します。しかし、そもそもこの競争構造を成立させたのは、P310型が「名前を持った大衆車」として市場に定着したからです。名前のないクルマ同士では、こうしたライバル関係は成り立ちません。

名前が系譜を作った

ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

1983年登場のU11型ブルーバードは、先代U11で始まったFF化の衝撃を消化し、実用車としての完成度を高めた世代。CA型エンジンの熟成とともに、ブルーバードは静かに変質していった。

P310型の最大の功績は、スペックでも販売台数でもなく、「ブルーバード」という名前を日本のクルマ文化に刻んだことです。この名前があったからこそ、410、510、610……と続く系譜が「ひとつの物語」として認識されるようになりました。

型式番号だけで呼ばれていたら、それぞれのモデルは単なる後継機種にすぎません。しかし「ブルーバード」という固有名が通底することで、世代を超えた比較や愛着が生まれる。510が名車として語り継がれるのも、910がヒット作として記憶されるのも、すべてはP310型が「名前」を持って生まれたことに端を発しています。

1959年という、日本がまさにモータリゼーションの入り口に立っていた年。そこに「青い鳥」と名付けられた小さな1000ccセダンが現れた。技術的に革新的だったわけではありません。圧倒的に速かったわけでもない。けれどこのクルマは、日産に「名前で勝負する」という文化を植え付けた。それは、スペックシートには載らない、しかし決定的に重要な遺産です。

小鍛治康人(やすと)

 

ブルーバード – P310【「名前」が生まれた瞬間のクルマ】

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