S500【ホンダが四輪メーカーになった日の証明書】

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S500【ホンダが四輪メーカーになった日の証明書】

ホンダが四輪メーカーになった瞬間を、たった一台で証明したクルマがあります。

1963年に登場したS500。

排気量わずか531cc、最高出力44馬力。

数字だけ見れば小さな存在ですが、このクルマが持っていた意味は、スペックの大小では測れません。

二輪屋が四輪に乗り込んだ時代

S600 / S800【バイク屋が本気で作った、最初の「ホンダの走り」】

ホンダ初の量産スポーツカーS600とS800。二輪メーカーが四輪に挑んだ背景、超高回転エンジンの設計思想、そしてこの2台が後のホンダ車に何を残したのかを読み解きます。

1960年代初頭、ホンダはすでに二輪車メーカーとしては世界的な成功を収めていました。マン島TTレースでの勝利、国内販売台数の急拡大。本田宗一郎にとって、次のステージは明確に四輪でした。

ただ、当時の通産省はホンダの四輪参入に消極的だったとされています。いわゆる「特振法」の問題です。自動車産業を少数の大手メーカーに集約しようとする国の方針と、新規参入したいホンダの意志は真っ向からぶつかりました。本田宗一郎が「私にはクルマを作る権利がある」と反発したエピソードは広く知られています。

S500は、そうした状況のなかで世に出たクルマです。単なる新車発表ではなく、ホンダという企業が四輪メーカーとして存在する権利を、製品で証明する行為だったわけです。

二輪の設計思想がそのまま走った

SPORTS 360【市販されなかったホンダの原点】

1962年に発表されながら市販されなかったホンダ初の四輪スポーツカー、SPORTS 360。S500へと繋がるその存在が、ホンダの四輪進出における本当の起点だった理由を読み解きます。

S500の心臓部は、直列4気筒DOHC・531ccエンジン。注目すべきは、最高出力44馬力を8,000rpmで発生するという、当時の四輪としては異常な高回転型ユニットだったことです。リッターあたり約83馬力。この数字は、同時代の量産車としては飛び抜けています。

なぜこんなエンジンが生まれたのか。答えは単純で、ホンダの設計者たちが二輪レースで培った高回転・高出力の技術をそのまま四輪に持ち込んだからです。4連キャブレター、ローラーチェーン駆動のカムシャフトなど、構成要素のひとつひとつに二輪の血が通っていました。

もうひとつ、S500を語るうえで外せないのがチェーン駆動の後輪です。一般的な四輪車はプロペラシャフトとデフギアで後輪を駆動しますが、S500はリアにチェーンケースを備え、左右のホイールをそれぞれチェーンで回すという独自の方式を採用しました。これもまた、二輪的な発想の延長線上にあるものです。

この方式は独立懸架との相性がよく、軽量なオープンスポーツとしてはバネ下重量の軽減にも寄与しました。ただし、構造の複雑さやメンテナンス性の面では課題もあり、後継のS600、S800へと進む過程で通常のリジッドアクスルへ変更されていきます。

スポーツカーという選択の意味

BEAT – PP1【軽自動車にミッドシップを積んだ、ホンダの本気の遊び】

1991年登場のホンダ・ビート(PP1)。軽自動車枠にミッドシップレイアウトを持ち込んだ異端の一台は、なぜ生まれ、何を残したのか。開発背景と設計思想を読み解きます。

ホンダが四輪第一号としてスポーツカーを選んだことには、明確な理由があります。本田宗一郎自身が「技術の高さを証明するにはスポーツカーが最適だ」という考えを持っていたとされています。実用車で勝負するのではなく、走りの性能で技術力を見せつける。二輪レースで世界を獲った企業としては、じつに一貫した戦略です。

同時期にホンダは軽トラックのT360も発表しており、商用車と並行して開発が進んでいました。T360のほうが実際の発売はわずかに早かったとも言われますが、ホンダが「四輪の顔」として世に問うたのは、あくまでS500のほうでした。

結果として、S500は1963年10月に発売されます。価格は45万9,000円。当時の大卒初任給が約1万6,000円ほどの時代ですから、安い買い物ではありません。しかし、小さなオープン2シーターが8,000回転まで回るエンジンを積んでいるという事実は、自動車好きの心をつかむには十分でした。

生産台数の少なさが語ること

S660 – JW5【軽自動車枠で本気を出した、最後のミッドシップ】

ホンダが軽自動車規格の中にミッドシップスポーツを詰め込んだS660。若手主導の開発、ビートの記憶、そして生産終了。その存在意義を読み解きます。

S500の生産台数は、わずか約1,363台とされています。きわめて少ない数字です。これは、S500がすぐにS600へとバトンを渡したことを意味しています。発売からわずか1年ほどで排気量を606ccに拡大したS600が登場し、S500は短命に終わりました。

ただ、この短命さをネガティブに捉える必要はありません。S500はある意味で「走るプロトタイプ」に近い存在でした。市販車として世に出しながら、技術を磨き、次のモデルへ反映する。二輪レースで鍛えた「走りながら改良する」というホンダの文化が、そのまま四輪でも機能していたわけです。

S600、そしてS800へと続くSシリーズの進化を見ると、S500で試みた高回転エンジンとライトウェイトスポーツの方向性がブレずに深化していることがわかります。S500は出発点であると同時に、方向を定めた羅針盤でもあったのです。

ホンダらしさの原液

プレリュード – SN 【ホンダが初めて「色気」を設計した車】

1978年登場の初代プレリュード(SN型)は、ホンダ初のスペシャルティカーであり、実用一辺倒だったホンダが「雰囲気で選ばれる車」に初めて挑んだ一台だった。

S500が後のホンダに残したものは何か。それは「エンジンで語るメーカー」というアイデンティティの確立です。高回転・高出力、リッターあたりの馬力で勝負する。この思想は、のちのシビックやインテグラ、S2000に至るまで、ホンダのスポーツモデルに通底するDNAとなりました。

VTECという可変バルブタイミング機構が1989年に登場したとき、多くの人がその高回転域の伸びに驚きましたが、ホンダにとっては1963年から一貫してやっていたことの延長でしかなかったとも言えます。

また、S500が示した「実用車ではなくスポーツカーで技術を問う」という姿勢は、NSXやS2000の企画思想にもつながっています。ホンダがスポーツカーを作るとき、そこには必ず「技術の証明」という意志が込められる。その原点がS500です。

531ccに詰まった企業の意志

シティターボII ブルドッグ – AA【過剰こそが正義だった時代の突然変異】

1983年登場のシティターボII ブルドッグは、軽量コンパクトカーにインタークーラーターボを押し込んだホンダの異端児。パワーウォーズの熱狂が生んだ、過剰と合理の奇妙な共存を読み解きます。

S500は、速さや性能の絶対値で語るクルマではありません。531ccの小さなエンジンを8,000回転まで回し切るという設計思想そのものに、ホンダという企業の性格がすべて表れています。

二輪で世界を獲った技術を四輪に注ぎ込み、国の方針にも屈せず、スポーツカーで四輪市場に殴り込んだ。その最初の一撃がS500でした。生産台数はわずか、販売期間も短い。けれど、このクルマがなければ、その後のホンダの四輪史はまったく違うものになっていたはずです。

S500は、ホンダが四輪メーカーになった日の、最も鮮烈な証明書です。

S660の系譜

小鍛治康人(やすと)

 

S500【ホンダが四輪メーカーになった日の証明書】

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小鍛治康人(やすと)

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hodzilla51

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