アストンマーティンのヴァンテージといえば、ブランドのエントリーモデルでありながら、どこか「これで十分」と思わせる不思議な説得力を持った車です。
ただ、2011年に登場したヴァンテージ Sは、その「十分」をあえて壊しにかかった一台でした。紳士的なGTの皮を被りながら、中身はかなり攻めている。
そのギャップにこそ、このモデルの面白さがあります。
エントリーモデルという立ち位置の意味
初代V8ヴァンテージが登場したのは2005年のことです。アストンマーティンのラインナップにおいて、DB9の下に位置するコンパクトなスポーツカーとして企画されました。ポルシェ911やジャガーXKR、あるいはマセラティ・グランツーリスモといったライバルがひしめくセグメントに、アストンが本格的に殴り込んだモデルです。
ただ、「エントリー」とはいっても、それはあくまでアストンマーティンの中での話です。4.3リッターV8を積み、ボンドカーの系譜に連なるデザインを持つこの車は、登場時から十分すぎるほどの存在感がありました。むしろ問題は、その上品さゆえに「もっとスポーティに振ってほしい」という声が出てきたことでしょう。
2008年にはエンジンが4.7リッターに拡大され、出力も420馬力に引き上げられました。しかし、ポルシェが911 GT3やターボSで次々とスポーツ性能の水準を引き上げていた時代です。アストンにも、もう一段ギアを上げたモデルが必要でした。
430馬力の意味するもの
2011年に追加されたヴァンテージ Sは、その回答です。エンジンは標準のV8ヴァンテージと同じ4.7リッターV8ですが、出力は430馬力に引き上げられています。数字だけ見れば標準車との差は10馬力。しかし、このモデルの本質はピークパワーの差ではありません。
チューニングの方向は、レスポンスとフィーリングの改善に向けられていました。吸排気系の見直し、ECUのリマッピングによって、エンジンの回転上昇はより鋭く、スロットルレスポンスはよりダイレクトになっています。つまり、「速くなった」というより「速さの質が変わった」と言うべきモデルです。
トランスミッションには、標準車のトルコン式6速ATに代えて、スポーツシフトIIIと呼ばれるシングルクラッチ式のオートメイテッドマニュアルが採用されました。正直に言えば、この変速機はスムーズさという点ではデュアルクラッチに及びません。しかし、ダイレクト感と「自分でギアを選んでいる」という感覚は、むしろこちらのほうが強い。アストンがあえてこの方式を選んだのは、快適性よりもドライバーとの対話を優先したからでしょう。
足回りとシャシーの再構成
ヴァンテージ Sの変更点はエンジンだけではありません。サスペンションはスプリングレートとダンパー設定が見直され、標準車よりも明確にスポーティな方向に振られています。車高もわずかに下げられ、ロール剛性が高まっています。
ステアリングのチューニングも変更されました。より重く、よりインフォメーションが伝わる設定です。アストンマーティンの車は、もともとステアリングの据わりがよいことで知られていますが、Sではそれがさらに研ぎ澄まされています。高速域での安定感と、コーナー進入時の手応えの両立は、このモデルの大きな美点です。
ブレーキにはカーボンセラミックディスクがオプションで用意されました。重量軽減とフェード耐性の向上が狙いですが、同時にバネ下重量の低減がハンドリングにも効いてきます。こうした積み重ねが、ヴァンテージ Sを「単なるパワーアップ版」ではなく、走りの質そのものを再定義したモデルにしています。
ライバルとの距離感
2011年当時、このセグメントの競争は激しいものでした。ポルシェ911カレラSは400馬力のフラット6で圧倒的な完成度を誇り、ジャガーXKR-Sは510馬力のスーパーチャージドV8で力技に出ていました。フェラーリ・カリフォルニアも同じ価格帯に存在しています。
ヴァンテージ Sの430馬力という数字は、この中では決して突出していません。しかし、アストンマーティンが勝負していたのは数字ではなく、キャラクターの濃さです。自然吸気V8の咆哮、アルミボディの軽やかさ、そしてどこまでも英国的なインテリアの質感。これらが組み合わさったときの「体験としての総合力」は、スペックシートでは測れません。
実際、ヴァンテージ Sを選ぶオーナーの多くは、ポルシェの速さやフェラーリの華やかさを十分に理解したうえで、あえてこちらを選んでいます。それは性能比較の結果ではなく、嗜好の選択です。アストンマーティンというブランドが持つ「控えめな凄み」に惹かれる層が、確実に存在していたということでしょう。
弱点と時代的な制約
もちろん、ヴァンテージ Sにも限界はありました。最大の課題は、プラットフォームの古さです。VHアーキテクチャと呼ばれるアルミ接着構造は2001年のヴァンキッシュから使われてきたもので、2011年時点ではすでに設計思想として一世代前のものでした。
先述のシングルクラッチ式トランスミッションも、日常使いでは好みが分かれます。低速域でのギクシャク感は否めず、渋滞の多い都市部では少々つらい場面もあったはずです。後に7速のスポーツシフトIIIへと改良されますが、デュアルクラッチやトルコンATの滑らかさには及びませんでした。
また、インフォテインメント系の装備は当時の基準でも古めかしく、ナビゲーションやオーディオの操作性はライバルに見劣りしていました。ただ、これをどこまで気にするかは、オーナーの価値観次第でしょう。エンジンをかけた瞬間のV8サウンドが、そうした不満を吹き飛ばしてしまうという声も少なくありません。
系譜の中での位置づけ
ヴァンテージ Sは、初代V8ヴァンテージの集大成に向かう過程で生まれたモデルです。この後、2013年にはさらに過激なV12ヴァンテージ Sが登場し、2018年には完全新設計の2代目ヴァンテージへとバトンが渡されます。
2代目はAMG製4.0リッターV8ツインターボを搭載し、性能面では大幅に進化しました。しかし、自然吸気V8の官能性という点では、初代のほうが上だったという評価も根強くあります。ヴァンテージ Sは、その自然吸気時代の最も研ぎ澄まされた形のひとつです。
アストンマーティンにとって、ヴァンテージ Sは「エントリーモデルでもここまでやれる」という意思表示でした。DB9やDBS、ヴァンキッシュといった上位モデルとは異なる、小さくて速いアストンという新しい価値を確立したモデルです。そしてその価値は、2代目以降にもしっかりと受け継がれています。
紳士のGTに、ほんの少しだけ野性を注ぎ込む。ヴァンテージ Sがやったのは、まさにそういうことでした。派手さはないけれど、乗れば分かる。
そういう車が、アストンマーティンらしさの核心なのかもしれません。
ヴァンテージの系譜


ヴァンテージ S – AM310【紳士のGTが牙を剥いた瞬間】
AstonMartin

この記事を書いた人
hodzilla51
クルマの系譜を追ってたら、いつの間にかサイトになっていました




